毎年12月14日になると、福岡市の興宗寺(穴観音)で、赤穂四十七義士祭が行われている。 この時に黒田藩伝来の「陽流抱え大筒」が披露される。
「陽流抱え大筒」は黒田長政以来、福岡藩に伝来したもので、口径の大きい火縄銃で、 「晒」により砲身とと腕を結びつけ、抱えて弾丸を発射する。 抱え大筒 2挺と火縄銃 1挺が砲術関係文書と一緒に「福岡県指定有形文化財」に指定されている。 100匁大筒 全長95.0 cm・銃身長56.5 cm、口径4.1 cm・重量22 kg 50匁大筒 全長95.0 cm・銃身長56.5 cm、口径3.3 cm・重量18 kg 20匁火縄銃 全長99.1 cm・銃身長70.7 cm、口径0.9 cm なお、この投稿は、2013/01/20 FaceBookページに載せたもので、ここに 加筆して再投稿した。
今年(2014年)8月13日、「大坂夏の陣図屏風」を見るために大阪城天守閣に登った。 見ることのできたのは、複製であったが、満足できた。 天守閣の展示物の中に大火縄銃が一挺あった。 銘:「大てんぐ」泉州堺の榎並屋勘左衛門作、全長206.6cm。十匁二分。
この銃は、大火縄銃としては、口径が多少小さいが、銃身は十分長く、 発射角を調整するための照準器(矢倉)をはめる溝や、「目当て」がついていた、 遠距離の的を狙撃するための大火縄銃(大鉄砲)といえるものだった。 説明書には、豊後・日田の日隈城主毛利高政が朝鮮の役や大阪の陣で用いた銃と同じ仕様とあった。 また、大阪城天主閣の入り口に青銅(唐金)製の大砲(石火矢)があった。
江戸幕府は、攘夷の方針が出た文久3年(1863年)に、作州津山藩に大砲の鋳造を命じた。 この大砲は、津山の鋳工百済清次郎が鋳造し、大阪湾に築かれた天保山砲台に置かれた。 維新後、大阪城内に移し、号砲に使ったという。 この砲身をよく見る、細かい罅がいっていた。青銅は経年劣化があると見える。 筑前・福岡藩の記録に、寛政6(1794)年幕府から長崎港に保管されている石火矢・大筒の実射検分を命じられたとある。 このころは、ロシア船が出没し、日本近海が騒がしい気配が出てきていた。 長崎には、寛永18(1641)年のころより多くの石火矢・大筒が大阪城より運びこまれていた。 150年も経つと、多くの石火矢や壊れて実用に耐えないことが分かった。 しかし大筒は実用に耐えたようである。大筒は、鉄を鍛錬して作ったものと考えられる。 寛政10年、福岡藩は、鋳造を分担した唐金石火矢14挺および石火矢玉800を船で長崎に運び、納入した。
2009年09月12・13日、不知火海を望む熊本県葦北町で「全国火縄銃サミット」が開催された。 12日に堺鉄砲研究会 代表 澤田 平さんの『慶長鉄砲とその周辺』と題する記念講演があり、 関が原の民家で発見された『慶長大鉄砲』をはじめとする各種の火縄銃が現物で紹介された。 かなりの量の火縄銃に関する知識を得ることができた。 『慶長大鉄砲』は、平成8年、銃身だけが関が原の民家で発見され、高木昭郎・竹中博男・澤田平の三氏が復元したもの。 慶長初年、堺の芝辻理右衛門作、銃身:全長2.5m、30匁(口径27mm)、重量30kg、弾は3km飛ぶとされている。
慶長5年(西暦1600年)の関が原の戦いでは、西軍の将石田三成は、笹尾山に陣を構え、大筒、大砲を備え、空堀と木柵で守を固めた。
石田隊の武将島左近が前衛を指揮し、黒田長政隊、細川忠興隊を相手に善戦していた。 石田隊は、その島左近を黒田隊の鉄砲で狙撃され失った後も、大筒、大砲を用いての戦いを続けていた。 東軍の総大将徳川家康は、西軍の小早川秀秋が松尾山(海抜300m)に陣して、寝返りの行動を起こず、形勢を窺っていたので、 秀秋の尻を押すために下からの射撃を命じた。 下からの射撃で、秀秋軍15,000は松尾山を駆け下り、互角に戦っていた西軍を一挙に壊滅することとなった。 澤田さんの話では、射程距離の長いこの『慶長大鉄砲』がこの射撃に用いられたのないかということである。 大鉄砲は、鍛造による鉄製の一般の火縄銃より長い銃身で、点火には火縄銃の様なカラクリ(機構)を用いる。 使用する弾丸は重量が二十匁(約 75g )~数十匁。銃身が重いので、土俵や木製の架台に固定し、発射する。 射程距離は数キロと長く、また破壊力が大きい。 鉄砲で遠距離の的を射るためには、火薬の分量と、銃身を上に向ける発射角の調整が必要であり、 稲富流では、火薬の分量と照準器(矢倉)を使用した発射角の調整が極意となっている。
なお、「抱え筒」は、大鉄砲の弾丸を用いるが、銃身を短くして、携行・抱えたまま射撃できる。 大鉄砲は、朝鮮の役、関が原の戦、大阪冬の陣で用られた。 朝鮮の役では。各地の築かれた倭城に多数の大鉄砲が備えられた。 また、鳴梁海戦では軍船上で指揮していた李舜臣将軍を倒した。 大阪冬・夏の陣では、豊臣軍、徳川軍とも多数の大鉄砲を用いたと云われている。 特に、徳川家康は、大量の大鉄砲や、石火矢を集めた。 石火矢は、青銅で鋳造した大砲で、国産のもののほか、オランダ船から借用し調達したとのことです。 なお、「関が原慶長大鉄砲」は、本年(2014年)では大阪市東成区開設される「真田幸村公資料館」で見られるようです。 但し、資料館は約2年間の期間限定の開設となっています。
鉄砲(火縄銃)は、戦国時代に日本に伝来し、各地で工夫されて製造された。 鍛冶職人が鉄を鍛錬して銃身を作った。 地方、寸法、口径、使用目的などによりおびただしい種類のものが存在。 最も数の多いものは、全長130cm、銃身長100cm強。 使用する弾は、二匁玉(口径:10.7mm、重量:7g) か二匁半玉(口径:11.8mm、重量 8.8g弱)。 銃の総重量は4kgから5kgくらい。 この種の銃は、有効射程距離100mで、鎧の胸板を十分に打ち抜く威力があった。 大火縄銃とは、使用する弾が二十匁玉(口径:23.58mm、重量:70g)以上で、銃身も2mと長い。 数キロは飛び、破壊力の大きく、海戦や、城の攻防戦や海戦に使用された。 大阪城天守閣展示の大火縄銃(2014/08/13) 銘:「大てんぐ」泉州堺の榎並屋勘左衛門作、全長206.6cm。十匁二分。
関が原慶長大鉄砲(2009/09/13) 関が原の民家で発見され、澤田平氏ら3人が復元。 銃身:全長2.5m、30匁(口径27mm)、重量30kg。 弾は3km飛ぶとされている。
堺市博物館展示の大火縄銃(2014/09/10) 江州国友住重富甚左衛門、摂州堺干時紀州和歌山住鎌倉屋藤兵衛作、慶長15年。 全長3m、重量135.75kg。50匁(口径:3.3cm、総重量:187.5g)。