itworks/seventies/ 2016 年度
16-11-24 真田山陸軍墓地
 大阪にある真田山陸軍墓地を訪れた。
大阪城の南、真田幸村が大勝利を挙げた「真田丸」のあったと思うわれる地である。
  
歩いていると「NPO法人旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会」の理事の方々にお会いして、お話を伺った。感謝です。  
  
もともと、大阪は、日本陸軍の明治3年創生の地であり、軍の中枢の地として、司令部(第四師団)、兵営のほか、演習場、  
学校(兵学寮)、兵器工場、それに大きな病院があった。それで真田山が最初で、最大の日本陸軍の埋葬地となっている。  
  
林立する個人墓碑、合葬墓碑、納骨堂は近代日本のの軍隊と戦争を伝えている。  
  

    左上:日清戦争の軍役夫のゾーン。軍役夫、鉄道工夫、酒保受負人等。     右上:西南戦争の個人墓碑。近衛、東京鎮台等の各鎮台からの兵卒。     左下:下士官の個人墓碑。明治37年8月旅順口での戦死。     右下:陸軍創設期・平時死没者、日清・日露の戦没者の美碑、1,413基。 個人墓碑は、五千基を越え、階級、名前の外、没年月日、場所、死因等が刻まれている。 一番古い墓碑は、明治3(1870)年長州藩出身の下田織之助。兵学寮の生徒で病死。陸軍の最初の被葬者。 明治10年の西南戦争での戦死・病没者の墓碑は兵卒923基。大阪鎮台以外に、近衛、東京、仙台、名古屋、広島、熊本の 出身が見えた。 日清戦争とそれに続く台湾派兵の個人墓碑は、3つのゾーンに整然と立っている。 兵卒707基のゾーン。軍役夫923基のゾーン。総数1413基並ぶゾーンの中に、陸軍草創期時・平時の死没者の墓碑と並んで 日清戦争、日露戦争の多数の個人墓碑が並んでいる。 日清戦争では、コレラ、脚気、凍傷で多くの病没者が出たようである。 日露戦争では、第四師団は戦地から遺骨約4,000人分を持ち帰った。そこで、個人墓標を立てることを止め、 「兵卒」「下士官」「准士官」「将校同相当官」の4基のが合葬墓碑を立てた。合葬者の名簿等は所在不明とのこと。 なお、この墓地には日露戦争戦没者の個人墓碑が兵卒約400基あるとのこと。 下士官401基、将校165基の墓碑は別のゾーンにある。 下士官のゾーンで、明治37年8月旅順口で戦死の墓碑を見た。 明治6年の陸軍の規則では、遺体引取り不能の場合陸軍埋葬地に埋葬する。 明治27年、戦地で火葬・埋葬ができることなる。 明治30年、戦地で死亡、火葬されても、後で陸軍埋葬地に改葬することなる。 昭和13年、陸軍墓地と改称。遺骨・遺髪の合葬が原則となる。 満州事変では合葬墓碑が一基。 「納骨堂」には、日中戦争・太平洋戦争(1937-1945)期の第四師団管区の将兵の骨壺、木箱が安置されている。 この管区での動員は50万人、死没者は14万人前後と推定されていて、この「納骨堂」には約43,000基の遺骨・遺品があると されていたが、調査で8,249基と判明した。

16-10-24 P.コーンウェル『死因』
 P.コーンウェル『死因』(講談社文庫1996年)を読んだ。

この本は、うちの奥さんの愛読書のP.コーンウェルの<検屍官シリーズ>の一冊。
話は、米ヴァージニア州の海岸地方(米海軍の主要な海軍基地がある)で、潜水禁止地区で
発見されたジャーナリストの変死体の謎を州検屍局長のスカーペッタが追い、巨大な陰謀に
遭遇するというもの。

最初に読んだ訳者あとがきの中に、新しいテクノロジーとしてバーチャル・リアリティーと
ロボットが登場するとあり、著者は情報技術に詳しく、細部の調査に行き届いているので、
これに興味を持ち読み出した。
20年前のテクノロジーとはどのようなものだったのか?

FBIは'トートー'と名づけられたロボットと、人間が装着するゴーグルとデータグローブを 持っていたとなっている。 'トートー'は、グレー色の高さ1メートルたらずの四角の鉄の胴体で、その上にビデオカメラの レンズの一つついた半球状の頭部を載せ、脚は滑り止めのついたキャタビラー、腕には物を掴む ためのグリッパーがついている。 'トートー'は、コンピューターにケーブルで繋がっている。この接続に無線を使わないのは、 原子力発電所内部のように分厚いコンクリ-ト壁の中で通信を円滑におこなうためだと。、 ゴーグルとデータグローブもコンピューターにケーブルで繋がっている。 ゴーグルの中にはディスプレイ画面があり、'トートー'の眼の捉えたリアルの画像と、 コンピューターが送りこんだ建物の内部などのバーチャル画像などを合成した画像が表示される。 データグローブ(手袋)は指令をコンピュターに伝える道具で、グローブの中の指を一本曲げる 「前進」、二本曲げれば「後退」という具合にコンピュターを介して'トートー'に指令を伝える。 'トートー'を操作して、歩くこと、階段を登る・降りること、物を持ち上げて運ぶ・降ろすこと が出来る。 つまり、操作者は、手と指を使い、画面を見ながら、原子力発電所内部のモデルの中でも、 ロボットの眼のとらえるリアルの原子力発電所内部でも、ロボットが操作者の分身のように 自由に歩きまわり、行動することができる。 20年前では、遅延を解決するために、コンピューターのプログラムをC言語に書き換えなくては ならなかったようである。 しかし、この20年で、情報技術の発展は目覚しく、コンピューターの処理能力の向上、カメラの 精度向上、研究者・開発者の増加があり、ゲーム機向けのデータグローブの発売もあった。 最近、FBIが不審物を爆破するのに、ロボットを使っているのをテレビで見た。 バーチャル・リアリティーとロボットが、身近なにローコストでできるようになっている。 まさに福島原発の廃炉を実現するのは、決死隊やガンダムでもなく、このテクノロジーに違いない。 俄然、バーチャル・リアリティーとロボットに興味がもった。

16-10-22 ブログ管理プログラム自作
 ブログ(コンテンツ)をデータベースに登録・編集するプログラムを作り、サーバーに載せた。

コンテンツを表示するプログラムはサーバーですでに稼動しているので、これで
自分のブログ管理プログラムはよやく形ができた。

プログラムはPHPで書き、データベースは、WordPressのものをそのまま使った
(wp1_posts、wp1_terms, wp1_term_relationships, wp1_term_taxonomy )。

WordPressのデータベース、特にコンテンツを分類するためのカテゴリーの扱いには、
藤本壱著『PHPによるWordPressカスタマイズブック』(ソシム,2009年)を参考にした。

16-08-08 「西北九州の縄文遺跡を訪ねる」
 日本ケルト協会のバスツアー「西北九州の縄文遺跡を訪ねる」で、
松浦市の御厨姫神社縄文遺跡に行くことができました。


姫神社縄文遺跡は、縄文早期・前期の貝塚で、姫神社の境内にある。 鳥居をくぐったところで、地面に、貝殻がちらばっていて、なかに土器片や黒曜石や サヌカイトの破片が混じっていた。

由来によると姫神社は応和3年(西暦963年)現在の地から南西1キロほどの地に鎮座。 主神は天照大神。後、夢のお告げで現在の地に遷座(長久元年(1040年))。 縄文人にとって、貝塚は、たんなる「ごみ捨て場」でなく、「また次のシーズンに豊作で あって欲しいと祈る場」であると思う。 「人のために失われた命が、ふたたび人のもとを訪れてくる神聖な場」がめんめんと 受け継がれていると思った。 このツアーは、日本ケルト協会(代表:山本啓湖さん)の企画したもので、毎年 日本各地の縄文遺跡を巡っている。 今回は、佐賀県・長崎県の遺跡を巡った。 第1日目、2016年07月30日(土)博多駅前を出発し、貸切バスで伊万里を目指す。 最初訪れたのは、伊万里・腰岳(黒曜石の産地)を車窓から眺め、松浦市に向かう。 松浦市小嶋遺跡、円墳3基と支石墓。 平戸市里田原遺跡、弥生の稲作遺跡。支石墓。   里田原歴史民俗資料館で発見された木製品(鍬、杵、杭、矢板列等々)。   近くに笠松天神社古墳(最も西にある前方後円墳)。

佐世保市には、大変古い洞穴遺跡が多くある。 福井洞穴、旧石器時代の細石刃と草創期の土器が発見された。 下本山岩陰遺跡、縄文時代の四体の埋葬人骨と哺乳類、鳥類、魚骨、貝類や土器、   石器類、釣針等の漁労具や貝輪、ペンダント等の装飾品の出土。   弥生期の箱式石棺に二体の埋葬人骨。 泉福寺洞穴、ここも旧石器時代の細石刃と草創期の土器が発見された。 佐世保市博物館で泉福寺洞穴出土の最古期の土器(レプリカ、高さ25センチ位)を見る。

展海峰にあがり、夕焼けの九十九島を眺める。北方に平戸島(志志伎山)、西に五島。 第2日目、2016年07月31日(日) 出津(しつ)遺跡、縄文前期から弥生前期の遺跡。貝塚。   外海(そとめ)歴史民俗資料館、土器、石器の遺物。支石墓で発見された石枕。   キリシタンの遺物。このあたりは、作家遠藤が「沈黙」のイメージを得たところ。   出津教会堂(自分は会堂内の拝観はパス)。 長崎市四海楼でちゃんぽん・皿うどんを味合う。海ではペーロン競争をやっていた。 長崎市深堀貝塚遺跡、縄文時代の土器や黒曜石で出来た石器、弥生時代の箱型   石棺や甕棺など。 佐賀県丸山遺跡、金立(きんりゅう)サービスエリアから歩いて見学。   長崎自動車道建設中に縄文・弥生・古墳時代の墓地が発見された。   甕棺(3)、支石墓(118)と古墳(12)。   遺跡は西方約500mに移転され、見学できるようになった。   円墳が3つ並び、内部は竪穴式石室、横穴式石室、舟形石棺の異なる3種の様式。



16-07-27 シン・ゴジラ 福岡タワーに出現
 シン・ゴジラが博多湾に上陸。百地浜の福岡タワー(地上123m)に出現した。



16-06-11 福岡藩伝来の陽流抱え大筒
 毎年12月14日になると、福岡市の興宗寺(穴観音)で、赤穂四十七義士祭が行わ
れている。この時に黒田藩伝来の「陽流抱え大筒」が披露される。






「陽流抱え大筒」は黒田長政以来、福岡藩に伝来したもので、口径の大きい 火縄銃で、「晒」により砲身とと腕を結びつけ、抱えて弾丸を発射する。 抱え大筒 2挺と火縄銃 1挺が砲術関係文書と一緒に「福岡県指定有形文化財」に指定されている。  100匁大筒  全長95.0 cm・銃身長56.5 cm、口径4.1 cm・重量22 kg   50匁大筒  全長95.0 cm・銃身長56.5 cm、口径3.3 cm・重量18 kg   20匁火縄銃 全長99.1 cm・銃身長70.7 cm、口径0.9 cm なお、この投稿は、2013/01/20 FaceBookページに載せたもので、ここに加筆して再投稿した。

16-05-31 75歳になる事の所感
  この6月で75歳になる。
「75歳」も街道のある一つの一里塚のようなものである。
この5月には、いろいろ出来事があり、この一里塚の大きさ実感した。

まず、2日に「物忘れ外来」で検査を受けた。
19日に自動車学校で「高齢者講習」。
21日には「後期高齢者医療被保険者証」が郵送されてきた。

最近、物忘れがよくあり、特に眼鏡を探す時間がばかにならない。
またタレントの名前が出てこない。
心配になり、妻と「物忘れ外来」に行った。
記憶力、判断力のテスト(いわゆる認知症のテスト)を受け、MRIを撮った。
MRIでは、脳のなかに白くなっている部分はなかったものの、左脳が萎縮のようとのこと
認知症のテストの結果は、良好だったと思っていたのに、張り切って答えを出したことが、
逆に、ものごとにあせっていると診断された。
結局、脳の血の巡りを活発にする処方に従うことにした。

自動車学校の「高齢者講習」では、また認知症のテストがあった。
コンピューターを使った動体、夜間の視力検査、実車を使った安全運転指導、
簡単な座学講習があった。
結果は良好で、年齢相当の判断力、記憶力、運転能力のようである。
しかし、年齢の分だけ能力が低下していることが実感されるので、自分自身で
注意する必要がある。

「後期高齢者医療被保険者証」が送って来た。
いまは全国健康保険協会の健康保険に入っているが、6月の誕生日で、健康
保険の資格を喪失し、後期高齢者医療の被保険者になるといことである。
私と扶養者である妻は健康保険を一緒に脱退ということなる。
これからは、妻は、個人で国民健康保険に加入するか、現在健康保険に入ている
人の扶養者になるかを選ばなくてはならない。
しかも、私の医療費の自己負担割合が、いまの健康保険高齢受給の1割が、
後期高齢者医療では3割になる見込みである。
「後期高齢者医療被」制度への認識がなかったのは、迂闊だったが、なんだか
寂しい感じがした。

これからは、
(1)家族とのんびりとすごす時間を増やす。
(2)運動不足なので、自分にあった課目を見つけ励む。
(3)読みたい本を読む。
(4)仕事は必要なものに。
(5)自動車も注意して安全運転を心掛ける。近場の日常の買い物で。

大きくなった一里塚を越えて先に行くことである。 

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